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 新大久保駅を出て大久保通りを東に二百メートル程行くと右手に全龍寺がある。山門を入って本道脇を南に進むと右側に北面してひっそりと「都筑(つづき)氏之墓」があり、右側面に「従五位下駿河守鼎雄峯重(するがのかみていゆうみねしげ)大居士 安政五年三月十八日」と刻まれている。都筑家は天正一九年(一五九〇)の徳川家康の関東入国に従って大箪笥(おおたんす)奉行の榊原小兵衛に率いられた玉薬(たまぐすり)同心の家系である。

 最近、NHKの大河ドラマ「篤姫(あつひめ)」で、幕末の内憂外患に苦しむ幕府が、安政五年(一八五八)老中堀田正睦(ほったまさよし)、勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)らを京都に派遣し、外国との通商条約締結の勅許を得るためにあの手この手と悪戦苦闘、遂に勅許が得られず、空しく江戸に戻る様子が放映された。この時、幕府の禁裏附(きんりづき)(京都所司代(しょしだい)の指示のもとに御所の守衛、用度調達を役目とし、朝廷内の動きを監視する役、千石高)として朝廷との窓口の実務を担当したのが都筑駿河守峯重でした。勅許が不調に終わったのを知った謹直温和な彼は三月一七日朝、責任を感じて切腹したらしいと噂された。しかし、公式には翌一八日に便所で倒れ、医師は中風と診断、意識不明のまま四ツ半(午前十一時)頃息を引き取ったという。全龍寺の都筑家墓の命日もこの日付である。そして幕府の公式文書『柳営補任(りゅうえいぶにん)』では堀田らが京都を発った翌四月六日が没日にされている。結局峯重の命日に三つの説があるが、とくに前二者は当時の複雑な政情がからんでどちらが正しいのか不明である。玉薬同心から異例の出世を遂げ、穏やかな隠居生活を目前にして荒波に揉まれ、心身ともに疲れ果てた悲痛な峯重が思いやられる。

 峯重は通称を金三郎といい、下谷の御徒(かち)飯島伴太夫(ともだゆう)の子として生まれ、玉薬同心都筑峯久(みねひさ)の養子になった。やがて感情奉行所勤めとなり、同僚川路聖謨(のちの勘定奉行)との親交によって大きな影響を受けるようになった。大津代官に抜擢され、ついで要職勘定吟味役を五年勤め、次に川路聖謨の後任として佐渡奉行に転じた。翌嘉永七年(一八五四)伊豆下田奉行(千石高、役料千俵)に就任、ロシア使節プチャーチンが和親条約締結のために下田に来航すると応接掛を勤めることになった。だが、この年十一月四日、大地震が発生、下田の町は津波で壊滅、三千八百人余の死者を出し、使節の乗船ディアナ号も大破、彼は救援活動に心血を注いだ。やっと目途(めど)のついた半年後の安政二年五月大身の旗本が勤める禁裏附に抜擢された。しかし、前述のような悲劇が待ち受けていたのであった。

 ところで、峯重の子息金三郎峯暉(みねてる)も異例な出世をした人物であった。父の生前に御徒頭から外国掛目付(めつけ)になり、跡目を相続してからも神奈川奉行、先手鉄砲頭(さきでてっぽうがしら)(組屋敷は下谷および牛込山伏町)と進み駿河守に叙任(じょにん)火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)を勤め、やがて幕政にも参画する勘定奉行、ついで北町奉行に登用された。その後、一時御役御免となるが、手腕を買われて再度勘定奉行を任された。最後に慶応四年(一八六八)一橋家の家老(但馬守(たじまのかみ))に就任。ここまでは判明しているが、以後の消息は不明。全龍寺ご住職のお話では峯暉は当寺には葬られていないとのこと。また、都筑家ご子孫の所在は分からず、現在、墓は無縁になっているとのことである。

都筑氏之墓 大久保1丁目全龍寺
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