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西条八十  
前回の終わりに、父西条重兵衛の遺産が大久保駅近くに広大な土地があったと書きました。実はこの土地の一部(現新宿区百人町二丁目二三)は日本映画界の先駆者梅屋庄吉に売却され、明治四二年にMパテー商会(のちの日活)の大久保撮影所となった。第一作の「大西郷一代記」は評判を呼び、両国の国技館で初上映されたという。熱血漢庄吉は中国革命の父孫文と意気投合して革命の資金にこの映画事業の収益を当てたという。亡命中の孫文は度々ここを訪れている。
ところで、八十は明治四二年、早稲田中学を卒業。早大英文科予科に入学したが二カ月ほどで退学してしまった。しかし、畏敬する吉江先生が早大講師に移ったので改めて早大英文科予科に入学、ついで東京帝国大学文学部国文学科専科生となって二つの大学で講義を聴くことにした。そして払方町の実家を出、諏訪町の諏訪神社そばの植木屋中村方に下宿。しばらくして兄英治が百人町の広大な敷地内に立派な家を建てて住むようになったので、八十も諏訪町の下宿を引き払って同居した。
大正二年、早大二年生。詩誌『抒情詩』に訳詩を寄せたところ、著名な詩人三木露風の目にとまり、『抒情詩』の詩会に招かれ、翌年、三木露風を中心にした季刊誌『未来』に拠る詩人たちに仲間入りし、彼の詩「鈴の音」が何者かに作曲されて流行した。これが詩人としての船出といえよう。
この頃、彼は嫂(兄英治の妻)から、兄が有価証券、土地権利書などを持ち出して失踪したことを知らされた。以後、彼は一家の生活を担う羽目になった。早大英文科を卒業、四谷信濃町に母弟妹と借家住いを余儀なくすることになった。生まれて初めての金の有難さを実感したのである。生活の為に、新宿中村屋に家庭教師として行き、一五歳の少女に英語を教えて月謝十円を稼いだ。この少女は後にインド革命の志士ラス・ビハリ・ボースと結婚した相馬俊子である。
五年六月、小川晴子と結婚。式は神楽坂上の横町にある小さな料理屋の二階で僅か十人ほどの関係者の立会いで行われた。新居は払方町の生家。この後、半年ほどして芝南佐久間町で二階を借りて生活するようになる。やがて、妻にすすめられて天ぷら屋「天三」を新橋駅前に開業。妻の実家の店先を改造したものである。この頃、旧知の田中に勧められて株に手を染めるようになり、天ぷら屋は僅かな期間で止めた。やがて表神田神保町三(東京堂の裏通り)の「建文館」二階に移り住み、「英語之日本」の編集をして生活の糧とした。七年五月、長女嫩子誕生。しばらくすると童話作家鈴木三重吉がやって来て『赤い鳥』への参加を勧めた。八十の「薔薇」、つづいて「かなりあ」が掲載され、翌年成田為三の作曲で発表されると、わが国最初の芸術童謡として全国的に歌われるようになった。(つづく)
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